(写真:鬱陵島からみた独島)
鬱陵島から肉眼で独島は見えます
つまり独島は韓国の領土
独島のための4のポイント
●第一は、幕府が松島(現竹島)の存在を初めて知ったのは、1696年1月の鳥取
藩とのやり取りの中である。そうである以上、それ以前の時期になる17世紀半ば
に現竹島の領有権を確立したなどといえるはずはない。
●第二に、幕府は1695年12月から1696年1月にかけての鳥取藩とのやり取りのな
かで、竹島(鬱陵島)と松島(現竹島)が、鳥取藩に属する島ではないことを確
認した上で、幕府としても日本領ではないとする結論を出して、1696年1月に日本人の竹島渡海を禁止したのである。
●第三に、1877年に明治政府の太政官は、島根県が竹島外一島(現竹島)の取り
扱いについて質問を受け、政府としての調査を行った上で
「竹島外一島本邦無関係」と決定した。
●第四に、1905年の領土編入を領有権の再確認という主張は誤りである。幕府も
明治政府も現竹島についての領有を主張したことはなく、逆に1696年と1877年の2度にわたって日本領ではないことを明らかにした。領土編入の閣議決定にある
のは、無主地であることを確認して領土編入したということである。無主地であ
るという以上、固有領土とはいえなくなる。
●問題は、その当時、現竹島は無主地であったかどうかである。
補)
・池内名古屋大学教授
池内教授は「島根県の人々が1906年に鬱陵島で「竹島が日本の領土に編入された」と伝えると、
大韓帝国の役人らが「鬱陵郡に属する独島が日本の領土だということは全く根拠がない」と反発し
たと紹介した。
池内教授は「大韓帝国の役人らの発言には何か(法的)根拠があるはずだ」
独島は日本固有の領土ではない!
独島=韓国領に決定!
(http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2011/08/02/0800000000AJP20110802001400882.HTML )
・堀和生京都大学教授
http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/hori1987.pdf
この京都大学の堀和生先生の論文を読んで下さい。
京大教授の知性は、にちゃんねらーとは別次元だと分かって貰いたいから
詳しく説明します。
この記事の2頁から3頁の地図1を見て、堀京大教授は、
「古地図としては鬱陵島と于山島がほぼ正しい位置関係に画かれている」
んだってさ。
于山島=独島=韓国領に決定
●ラスク書簡を否定するアメリカ秘密文書の発見!
<駐日アメリカ大使館の秘密資料>
この資料の価値ですが、サンフランシスコ講和条約前後、竹島=独島問題で
迷走を繰りかえしたアメリカの最終見解を知るのに貴重な資料です。
この文書で特に重要なのは、アメリカが何回か竹島=独島問題を検討した結
果、1952年10月の時点で、リアンコールト岩(竹島=独島)は「ある時期に朝鮮
王朝の一部であった」という結論を出したことです。
この結論は、ラスク国務次官補の書簡(1951.8.10)と明らかに矛盾します。
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秘密(解除)
発信:アメリカ大使館・東京 659
受信:国務省、ワシントン 1952.10.3
件名:リアンコールト岩の韓国人
韓国と日本の間で相次ぐ利害関係の衝突により、両国関係が悪化している。
最近、発生したある事件は、今後より大きな問題に発展しかねない。また、アメ
リカへ少なからぬ影響を与えかねない。その事件と言うのはリアンコールト岩
(独島)をめぐる領土紛争であり、日本と韓国の間で領有権をめぐる紛争であ
る。
国務省はリアンコールト岩の歴史をすでに数回も検討したことがあるが、そ
れをここで詳述する必要はない。その岩はアザラシの繁殖地であり、ある時期、
朝鮮王朝の一部であった。その岩は、日本がその帝国を朝鮮に拡張した時、もち
ろん朝鮮の残りの領土とともに併合された。
しかしながら日本政府は、帝国支配の過程においてこの領域を日本の本土に
編入し、ある県の行政下においた。
そのため、日本が平和条約の第2章で「済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝
鮮に対するすべての権利、権原及び請求権」を放棄することに同意した時、条約
の起草者はこの岩を放棄すべき領域に含めなかった。
日本は、リアンコールト岩に対する日本の領有権は理由のあることとしてい
る。それに韓国が異議を唱えているのは明白な根拠にもとづくものである。
この岩は韓国と日本の間にある日本海の公海上にあり、国連軍の航空機にと
って北朝鮮での爆撃から戻る際に有用である。この岩は、投下目的地で使用され
なかった爆弾を落
とせるレーダー照準点として使うことができる。
リアンコールト岩は無人島で、しかも航路の目印になるので、実際の爆撃の
標的として理想的である。そのため、日米安全保障協定にもとづく合同委員会に
よる作戦区域の選定において、この岩は上記の目的に役立ち、日本政府により施
設として指定されることが合意される。
その岩は爆撃目標になっており、危険区域として宣言され、週7日、24時
間のベースで立ち入り禁止区域として知らされている。
この効果に関する情報は、極東司令部やおそらく極東空軍および海軍・極東
の下部組織をつうじて配布された。つい最近、情報は真珠湾にある太平洋艦隊の
最高司令官に流された。水兵への通達、あるいは hydropacの形で事務的に配布
できるようにするためである。
http://www.han.org/a/half-moon/hm111.html#No.822
●半月城先生の見解
論説、朴炳渉「明治時代の欝陵島漁業と竹島=独島問題(2)」
『北東アジア文化研究』第32号、2010.10、要約は以下のとおり。
(1) 竹島=独島は遅くとも1899年には欝陵島住民の漁業などで具体的に認識された。そう
した漁業をとおして日本領事館や日本政府などは竹島=独島を欝陵島の付属島と認識した。
(2) 大韓帝国末期、韓国各地の「石島」は [Seok do]と音読されたのではなく、全羅道で
は日本語表記で「トトクソム」、その他の地域などでは「トルソム」「トリソム」など
と訓読された(水路誌)。これらは[Dok seom]や[Dol seom]に由来する。
(3) 1880年代、欝陵島民の半数以上は全羅道の石島近くの巨文島や初島から来た。石島を
全羅道の方言で[Dok seom]と呼ぶ彼らは、竹島=独島も[Dok seom]と呼称し、それが
1900年勅令41号に石島と漢字で表記されたであろう。
(4) 竹島=独島は1920年代にも[Dok seom]と呼称された(日本外務省資料)。戦後も米国
の占領軍文書などから呼称名[Dok seom]が確認される。
(5) 于山島の探索が現地で二度おこなわれたが失敗し、伝説の島になってしまった。その
ために于山島の名が勅令41号に記述されなかったと見られる。
(6) 竹島=独島を無主地として領土編入した日本の閣議決定や島根県告示40号などは、日
本の官報記事 (1905.9.18)「韓国鬱陵島現況」によって、竹島=独島が欝陵島の付属島
であり、欝陵島民が経済活動をしていたことが立証されるので、領土編入はその根拠を失う。
本論説の全文、および論説(1)は下記のサイトで閲覧可能。
http://www.kr-jp.net/ronbun/park/park.html
http://www.han.org/a/half-moon/net-news/dokdo-25.html
※石島=独島! また独島は鬱陵島の属島!
※日本の領土編入は無効! 独島=韓国領に決定!
海洋水産動向1250号2007.11.20
責任研究員 柳美林
「于山島は独島」 立証する朝鮮時代史料発掘
●01わが国の独島領有権問題とかかわって今まで韓日間に尖鋭に対立してきた争点の中
の一つである于山島が独島という事実を立証することができる新しい資料が発掘された。
●02最近うちの研究員が朝鮮後期安龍福事件当時生存した朴世堂の「鬱陵島」と張漢相の
「蔚陵島事蹟」を分析した結果、于山島は鬱陵島とは全然違った別個の島であることが明
らかとなった。
●03今までわが国は「世宗実録地理誌」などをもとに于山島を独島と主張してきたが、日
本は于山島に対して鬱陵島やその横にある竹嶼島を指称することだと反駁してきた。
●04しかし朴世堂は鬱陵島で天気がとてもよいとか高い所に上がると于山島が見えると
記録していて、日本が主張するように于山島が竹嶼島や観音島を指すのではないという事
実が立証された。
http://library.kmi.re.kr/w03_01e.asp?gs_DType=s&gs_DControlNo=2053&gs_SelYears=2007&gs_Years=2007
●朴炳渉先生(半月城先生)頑張って下さい!応援しています!
●[この人]「独島研究どうして日本資料活用しないか」
「独島は日本の領土」 研究陣に対立する 「在日論客」朴炳渉氏
キム・ドヒョン記者
http://img.hani.co.kr/imgdb/resize/2008/0905/6000086916_20080905.JPG
▲朴炳渉(66・写真)
30年会社員、独学末歴史理論 「武装」
日本右翼学界下條教授の 「天敵」 活動
「閉鎖的研究限界」 知彼知己 奮発依頼
現在日本で独島に対して一番活発な発言をする人は下條正男(58) 拓植大学教授だ。2005
年日本島根県の「竹島の日」制定以後彼が書いた独島関連論文や寄稿文は年間5~6編を
数える。当時島根県が作った「竹島研究会」の座長を引き受けて2年間の研究の終わりに
「竹島問題に関する調査研究最終報告書」作成を主導した彼は現在島根県の「web竹島問
題研究所」所長を引き受けている。この研究所ホームページに「実事求是」というページ
を通じて東北アジア歴史財団、韓国海洋水産開発院などの独島研究論文を猛烈に批判して
いる。
彼の批判対象のなかには「半月城」というペンネ―ムで日本で活動中の在日韓国人独島
研究家朴炳渉(66・写真)さんも含まれている。「半月城通信」というインターネットホー
ムページと冊子を通じて2000年以後独島が韓国の地であるのを立証する数十編の論文を
発表してきた朴さんの主な論駁対象も下條教授だ。いわば下條教授と朴さんは独島問題に
関する一天敵なわけだ。
朴さんは6月嶺南大で発行した <独島研究>(第4号)に載った「下條正男論説を分析す
る」という論文を通じてその主張の虚構性を一つ一つ指摘した。特に1877年明治政府の
国家最高機関である太政官で「竹島(当時鬱陵島指称) 外1島は日本の地ではない」と指
令を下げた事実の解釈をめぐって「1島が独島を指称したのではない」という下條教授の
主張を痛烈に論駁した。
彼は「1987年太政官指令を初めて発掘した堀和生(京都大教授)を含めて内藤正中(島根
大名誉教授) など日本学者も「1島が独島」と解釈している」のを前提として「下條はこ
の解釈に対して長い間黙っている途中、2004年以後「外1島は不明だ」と主張したら、
その後毎年自分の主張を変えている」と指摘した。
<竹島=独島論争>(内藤正中と共著、2007年12月新幹社)、<安龍福事件に対する検証>
(韓国海洋水産開発院 2007年12月) など独島関連著書と論文5~6編を発行した朴さん
は実は大学では史学とは距離が遠い物理を専攻した。卒業後日本の会社で30年以上平凡
な会社員で勤めた彼は「歴史の真実が分かりたい」という心で韓-日間歴史を一人で勉強
した。95年10月から日本の植民統治と戦後責任問題に関する研究結果を「半月城通信」
という名前でインターネットに上げ始めて、現在979件の論文と各種の文章を発表した。
特に96年6月8日から連載した従軍慰安婦関連の文章は100回まで続いて保守的な<読売
新聞>にも報道されるなど大きな反響を呼んだ。
「乙巳條約の合法性の問題、関東大地震の朝鮮人虐殺問題、日本軍隊慰安婦問題などに
対して文を書くと日本右翼が猛烈に攻撃をしてきますね。相手の攻撃に黙ることができな
くて、対応する次元で文を書いてみると今まで続きました。」
それでも彼の文は民族主義の概念を立てない。「歴史の真実は一つだけです。独島問題
の核心争点である安龍福の行跡をめぐる真実も韓-日間に格差が大きいです。その格差を
狭めることで真実に近づくことができると思います。私の研究が (韓-日両国) 社会の助
けになったらと念願しています。」
彼は「独島問題に対する韓国政府の主張や活動が日本国内の世論をほとんど動かすことが
できない」と指摘して積極的な日本国内の情報伝達活動を注文した。「駐日大使館と韓国
文化院に独島講演会みたいな積極的な広報活動を要請したが、政治関連行事は困るという
返事だけ聞きました。民団次元でも消極的で。」
彼はまた韓国歴史学者も独島問題とかかわって日本の方の資料をまともに活用しないで
「1国主義の研究」の限界を現わしていると言って奮発を頼んだ。
東京/文・写真キム・ドヒョン特派員 aip209@hani.co.kr
記事登録 : 2008-09-04 午後 07:08:52 記事修正 : 2008-09-05 午前 02:08:33
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/308520.html